トルコと日本の友好関係

トルコは大変親日的な国です。
旅行中子供達がニコニコしながら日本語で挨拶してくれます。
他の国ではよく中国人と間違えられて「ニーハオ」なんて言われますが、トルコでは全くそのようなことはありませんでした。
それには次のような理由があるのです。


1890年トルコ皇帝ハミル2世が日本に派遣した特使一行を乗せたエルトゥールル号が、トルコへの帰路台風に遭い、和歌山県串本町沖合で岩礁に衝突し遭難するという事故が起こりました。
この事故を知った地元民は船員の救助を行い、多くの人は亡くなったものの69名は地元民の手厚い救護により、一命を取り留めました。この時村人たちは自分たちの食べるものまでトルコ人に与え、介護したそうです。また、遭難者の遺体を引き上げ、丁重に葬りました。

しかもこの事件の4年前に、同じく紀州沖でイギリス貨物船ノルマントン号事件が起こっているのです。
この遭難では難破して沈没する船を放置して船長のドレイク以下外国人船員全員はボートで脱出、乗り合わせていた日本人乗客25名は見捨てられ、全員船中に取り残されて溺死するという無残な結末となったのです。
にもかかわらず、領事裁判権を持つイギリス領事は船長に無罪判決を下しました。のち日本政府は船長を殺人罪で告訴しましたが、3ヵ月の禁鍋程度で賠償は一切却下、まさに不平等条約の非情さを天下に知らしめた事件でした。

にもかかわらずその後、エルトゥールル号遭難者たちは「金剛」「比叡」の軍艦2隻でトルコに送り届けられました。更に多くの日本人はこの遭難に同情し、「山田寅次郎」という人物が、一民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて義捐金を集め、それを携えてトルコに渡りました。

山田寅次郎は外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト2世に拝謁しました。山田はトルコ側の要請でそのままトルコに留まり日本語を教え、日本とトルコの友好親善に尽くしたそうです。この時の教え子の中には、後にトルコ共和国初代大統領となるケマル・パシャ(アタチュルク)がいました。

そして次のような後日談があります。イラン・イラク戦争の最中、イラクのサダム・フセインが、「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす。」と世界に向けて発信しました。イランに住んでた日本人たちは、急いでテヘラン空港に向かいました。世界各国は自国の救援機を出して救出していましたが、日本政府は素早い決定ができず、日本人は空港で足止め状態になっていました。

その時、2機の飛行機が到着しました。それはトルコ航空の飛行機でした。その飛行機は日本人215名全員を乗せて日本に向けて飛び立ちました。タイムリミットの1時間15分前のことでした。なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、全く間違った内容でニュース解説した人もいたそうです。

このことを前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は、後に次のように語っています。

「エルトゥールル号の事故に関して大島の人たちや日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今でもトルコ国民たちは忘れていません。私も小学生のころ歴史の教科書で学びました。トルコでは、子供たちでさえエルトゥールル号のことを知っています。現在の日本人が知らないだけです。だからこそ、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」


私はトルコ旅行に行く前、偶然にこの事をTVで知りました。
和歌山県沖でエルトゥールル号の遺品を引き上げており、それをトルコへ送るという内容でした。
しかしツアー同行の人達はあまり知らなかったようで、ガイドさんの話の後大きい拍手が起りました。
今でもこの話はトルコの教科書に載っており、子供達は皆このことを知っているそうです。